ワクチンの無い世界

    Webを漁ると、ワクチンの効用に疑義を唱えるサイトが、かなり見つかる。こんなものに引っかかって、我が子のワクチン接種を拒否する様な親も居るようだ。児童虐待であるだけでなく、我が子が、ワクチン接種前の人様の子供に病気を感染させる可能性も生ずるのであるから、反社会的な行為でもある。

   反ワクチンの言説が広まる様になったのは、逆説的ながら、我々がワクチンを初めとする伝染病抑制の為の医療システムの恩恵に十分に浴していて、伝染病の心配をしなくても良い社会に生きて居るからだろう。伝染病の猖獗の体験が社会から失われると、その幸福を支えるシステムへの感謝も薄らぐ。そして、稀にワクチン接種に伴う事故ーーらしきものーーが発生すると、マスメディアは一斉にそれを報ずる。しかし、そのワクチンが救っている人命の膨大であることは伝えられない。
   医療関係者はこの様な状況は不満であろうが、しかし、ワクチンの必要性さえ理解されにくくなるほどに安全な社会を作り上げたことは、誇っても良いのではないかと思う。

   今、西アフリカで、エボラ出血熱の大規模な感染が発生し、治療に当たる医療関係者を含む多くの人々が命を落としている。ワクチンも有効な治療法も見つかっていないからである。
   ワクチンのない世界とは、こういう世界である。

 http://www.nytimes.com/2014/08/08/world/africa/dont-touch-the-walls-ebola-fears-infect-hospital.html?module=Search&mabReward=relbias%3Ar%2C%7B%222%22%3A%22RI%3A14%22%7D

不毛な復讐

企業が大きな事故を起こすと、得てしてその時の経営者が社会から厳しく糾弾されるものだが、では、その経営者が真にその事故の原因を作ったのかと言えば、そうではないことが圧倒的に多い。遥か以前に原因となる構造は形作られて居て、その時の経営者はその枠組みの中で行動して居たに過ぎない、と言う説明が、殆どの場合に当て嵌るのでは無かろうか?

この東電の件も然り。原発安全神話が浸透した組織の中で、”14m超の津波に襲われる可能性がある”と聞かされても、それは「将来地球に大隕石が落ちる可能性がある」と聞かされるのと五十歩百歩で有った可能性が高い。そんな立場に有った人間に、刑事罰を課すことに何の正当性があるだろうか?

罰すべし、と主張する人々は、恐らくは「悲劇の再発防止」を理由として上げるだろうが、根本原因がどこにあるのか特定しないまま、ルールを無視して闇雲に人に刑罰を加える事に、一体何の防止効果があるというのだろうか。真に悲劇の再発防止を願うのであれば、先ずは、一体何が本質的な原因で有ったのかを考えねばならない。

「疑わしきは罰せず」との原則は、被疑者の人権を保護する為だけに存在するものではない。社会として、真の原因を特定することなく、目の前の、一見した限りでは分かり易い"悪役"を叩いて、さも正義が達成されたかの如き錯覚と陶酔に浸りつつ、根本原因は放置される状況に陥る、そんな事態を防ぐための、戒めであると思う。

残念ながら、日本の中の少なく無い数の人々が、この無意味な起訴を支持し、その中には被災地の方々も含まれている様だ。

ただし、彼らが被災地の多数派であるとは限らない。本当の被災者はこんな無意味な"復讐'は、望んでいないのでは無かろうか。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014073102000253.html

あなた達に過失はないのか?

   戦前、軍部が日本を支配して居た時代、共産主義に対する恐怖と憎悪から、日本では多くの共産党員が、当然の人権を無視され、不当に逮捕され、命を落としたとか。

   時代は下って現代、原子力に対する恐怖と憎悪から、日本では多くの電力関係者が、当然の人権を無視され、強制起訴の対象とされつつある。

   しかし、刑事責任を問う場合の絶対の条件は、「疑わしきは被告人の利益に」である。

   耐用年数が50年程度の原発の稼働期間中に、1000年に一度の地震が発生し、更に、そのために発生した津波によって原発冷却のための全電源が失われ、しかも、他の冷却手段も機能せずにメルトダウンに至る、と言う自体を予測出来なかったことが、現場の状況に詳しいはずのない元会長に対して、刑事責任を問うことに疑いを指しはさむ理由を見つける余地が無い程の根拠になる、などとは、到底私には思われない。

   そもそも、東電元会長の強制起訴に快哉を叫ぶ人には責任はないのか。一貫して反原発を主張してきたのならともかく、事故後になって反原発を主張し出した人も少なくはあるまい。

   そのような、原発の危険性に気づけなかった人々に、過失はないのか?

   仮に東電の元会長が起訴相当であると言うのならば、このような人々にも過失はある。彼らは日本国の主権者なのだからその罪は軽くは無い筈である。

http://mainichi.jp/select/news/20140731k0000e040212000c.html

「成功体験」は疑おう

   機関銃で武装した要塞陣地に対して肉弾突撃を何度となく強いて、多くの兵の命を無駄に奪った、近代戦史上稀な無能中の無能な将軍、と言えばこれまでの私の認識では exclusively に乃木希典だったのですが、少し訂正する必要がありそうです。同様の無能は同時代のヨーロッパにもかなりいて、第一次世界大戦で多くの兵卒が無駄に命を落とす結果を招いたようです。

   相手が槍や刀しか持っていないアフリカの現地民族との戦いにおいて、騎兵や歩兵による堂々の正面攻撃が圧倒的な大成功を収めて居たからと言って、機関銃で武装するヨーロッパの国相手の戦いで、同じことをやってはいけない。考えるまでもなく気づきそうなものですが、実際にはそうではなかった。やってしまって、惨憺たる結果を招いても、なお、旧来のやり方に固執した。

   成功は、人を盲にするのかもしれません。
   私は今の仕事をして居て「上手く行っている」という成功の感触を得ていますが、そのことが、却って不安を煽ります。先に潜む破滅のタネを見落としているのでは無いか。。。。

   なお、この事例は、軍隊という上意下達が徹底した組織であることが影響しているかもしれません。下位の若手が自らの意見を述べることが出来ないような組織においては、一旦”正義”が確立し、その正義を奉戴する者が組織の上部に立ってしまうと、容易にはその”正義”を修正出来なくなります。

   こう考えると、統制の徹底した組織は、短期的には大きな成功を収める可能性があるものの、次の瞬間、自らの成功体験が原因と成って崩壊するリスクを負っていることになります。

   身近な事例に照らしても、この結論は確かに妥当性を備えているように思われます。

http://www.nytimes.com/2014/07/29/opinion/adam-hochschild-why-world-war-i-was-such-a-blood-bath.html?emc=edit_ty_20140729&nl=opinion&nlid=61487034&_r=0

「時々停電する」電力

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4019?page=5

孫正義氏は「時々停電する質の悪い電気でも安ければよいという需要家もいるだろう」と言っている様だ。

 原理的に、市場メカニズムは、需要と供給の一致を保証しない。以前に何処かの本で読んだ指摘である。定説として受け入れられているのかどうかは知らないが、私は基本的に正しいと判断している。

 現実の世界における需要には、予期不能の揺らぎがある。揺らぎを見越して供給量を増やすと、供給者は売れ残りが発生するリスクを負う事になる。それでも、利幅が大きな商品であれば、揺らぎで上ぶれした際に上手く売れた場合の利益が大きいので、供給者は多めに供給する方を選択する。

 しかし、完全に自由な市場では、供給者が獲得する収益は限りなくゼロに近づく筈なので、供給者は売れ残りを発生させるリスクは取れなくなる。仮にその様な供給者が現れたとしても、競争上不利な行動をとって居るわけだから、自由な市場では生き残ることが出来ず、市場から排除される。

 よって、完全に自由な競争の下で取引される商品は、常に供給不足のリスクに曝されることになる。

加えて電力の場合、予測不能の需要の揺らぎに加えて、明々白々な需要の季節変動がある。春秋は少なく、夏冬は大きい。しかも、予め生産して蓄えておくということができない。そのため電力会社は、通常のメーカーであれば考えられないような、過剰な設備を保有する必要がある。逆に言えば、需要集中期における電力供給責任を他社に押し付け、自らは年間を通じて確実に需要が見込まれる程度の発電能力しか保有しないのであれば、発電という事業は旨味のある商売になる。

孫氏の発言は、氏が正にこの旨味を狙っていることの表れだと思う。

その様な孫氏の姿勢に対する評価は横に置くとして、「時々停電する質の悪い電気」を供給するという事業モデルはそもそも成り立たない。発電事業者は複数存在しても、送電網は一つしか存在しないからである。発電事業者のどれかが需要集中期に「俺のところは停電させる」事を選択し、自らが電力を供給して居る送電網をダウンさせると、それは唯一の送電網なので、全ての電力供給が停止する。

 やはり、電力供給の事業を、単純に自由化することは好ましくない。 そして一定量の余剰発電能力の確保を義務付ける規制が必要である。それでは大幅な電気代引き下げは難しくなるかもしれないが、そもそも電力事業というものがそういうものなのだから仕方が無い。孫氏は、現実を受け入れるべきである。

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なお、需要の変動部分を別市場として切り離すという対処も、その様な柔軟な供給を可能にするインフラが存在することを前提として、理屈の上では考えられる。

一般の契約者に対しては、予想を超える需要が発生した場合の電力供給を保証しないこととし、それでは困ると言う契約者には、その様な場合でも電力供給を保証されるという、高額のオプションを用意する。

オプションの価格を自由競争で決めさせる場合、先の議論によって、市場メカニズムは需要を満足する供給を保証しないので、電力不足が発生するリスクは残る。しかし、オプションにより追加の収入が得られるため、電力会社には、発電設備への追加の投資余力が生まれる。このため、大規模停電のリスクは、大きく低下する。また「オプションにお金を払ってまで、電力供給を保証してもらう必要はない」と考える需要家に対してまで、余剰の発電能力を確保する必要が無くなるので、無駄な設備投資を回避できる。これは社会全体として見て好ましいことである。

このオプションに近いことは今でも行われているが、オプションの選択の自由があるのは一部の大口契約者に限られる。現実問題として、現在の送電システムでは、一般家庭向けでそんな細かな制御は出来ない筈だ。それを可能にするためには、例の、スマートグリッド、とか言う膨大な投資を要するインフラが必要になるだろう。

やはり、一定量の余剰発電能力の確保を義務付ける規制を残す選択の方が、安上がりに済みそうな気がする。そして、その様な規制の下の自由化でも、それなりの意義はあるだろう。